「大徳寺聚光院の襖絵」展

先日、東京国立博物館で開催されていた「大徳寺聚光院の襖絵」展にいってきた。目玉は狩野松栄・永徳親子による46面にもおよぶ襖絵である。
 
今回はじめて知ったことだが、大徳寺聚光院は三好長慶の菩提を弔うために建立されたという。三好長慶といえば、足利将軍家と対立したことで有名だ。政治的には悪名高いが、京都付近を本拠にしていたこともあり、文化面での素養の高さも有名だ。その配下にあった松永久秀東大寺焼き討ち・足利義輝暗殺など政治面でのきなくささはあるものの、九十九茄子という茶器を所持し、文化面での造詣の深さは有していた。
 
図録を散見すると、大徳寺を中心とするネットワークの広さに興味をそそられた。観覧中はそこまで気が回らなかったが、このエッセイを書く際、図録をひもといてみると、大徳寺の人的なひろがりを感じざるをえない。表面上は三好一族の菩提寺であるが、文化的には京都と堺を結ぶ拠点であったようにおもわれる。京都の狩野が出てくるのはわかるものの、千利休長谷川等伯が出てくるのは不思議だった。大徳寺第90世住持の大林宗套が笑嶺宗※(大徳寺第107世)に印可を許したことにルーツがありそうだ。笑嶺は聚光院の開祖である。大林宗套は、大徳寺に来る前に堺の南宗庵にいた。大林宗套は三好長慶の依頼により、堺に南宗寺を開く。大林宗套と笑嶺との結びつきで京と堺が結びつく。千利休菩提寺大徳寺がなっている理由はよくわからないが、手元の図録に頼るなら、南宗寺第13世と大徳寺第153世との住持になった沢庵宗彭がカギになりそうだ。聚光院にある「沢庵宗彭像」の依頼者は安斎宗朝といい、彼は千利休の茶道の師である武野紹鴎の孫である。等伯大徳寺とのつながりはよくわからないが、堺が大徳寺と深い関わりをもっていたことから類推すれば、決して不可解な関係ではなかろう。横道にそれてしまったが、興味深い課題が浮上してきたので、今後の課題としたい。
 
襖絵に戻ると、なんといっても永徳の若さが目につく。父・松栄との合作ということもあり、松栄の老練さと比較できてしまう。永徳の若さは、力強さとスピードに現れる。中世の水墨画雪舟にいきつくが、雪舟の持ち味も力強さとスピードだ。等伯の初期も同様の印象がある。画風に年齢が現れてしまうのは仕方が無いところだが、それが逆に新鮮なイメージを与える。
 
襖絵の配置も気が利いているように思う。礼の間、衣鉢の間など落ち着いた雰囲気をかもし出す場には松栄、荘厳さが必要な室中、檀家を迎える檀那の間には永徳、となっている。部屋の装飾が部屋の雰囲気を左右するので、この配置は絶妙であろう。
 
以上のごとく、永徳の若年期の画を見ることができ、大徳寺聚光院を巡る人的ネットワークの深さを感じることができ、有意義な展覧会だった。
 
※:ごんべんに「斤」