サポーターの見方

今回はやや過激で、想像の域をでない内容もあるので、その点はご容赦願いたい。
 
昨年は7回、今年は2回。これは私が観戦にいった浦和レッズの試合数である。ホームゲームのほぼ半分といったところか。私は指定席で観戦する方なので、毎試合いけるわけではないし、駒場のチケットはとりづらい。埼玉スタジアムのチケットは席数が駒場の3倍あるので、容易にとれる。ただ、雰囲気は駒場が最高だ。根拠はないが、駒場だと負けない気がする。スタジアム全体が赤く染まり、そこにいるだけでボルテージは上がる。これはスタジアムに行かないと、分からない感覚だ。
 
この雰囲気をもたらすものはなにか。これが今回のテーマだ。私が用意できる解答は一つだ。それは、「サポーター」にあるのではないか、と思う。スタジアムにきた約2万人の観衆がレッズを鼓舞する。レッズに勝って欲しい、という願いが自然と応援を呼ぶのではないか。スタジアムで観ているだけの我々が選手やチームにすることができるのは応援しかない。無論、リードしているときやゴールを決めたときは気分が良いし、自然と応援に熱が入る。しかし、である。リードを許しているときやゴールが決められないときはどうか。この場面こそ「ファン」と「サポーター」の分水嶺になるのではないか、と思うのだ。この場面で選手やチームを鼓舞し、戦う心や勇気あるチャレンジを再び起こさせることができるような応援をするのが「サポーター」であると考える。
 
この定義によれば、レッズにはまさしく「サポーター」が存在する。スタンドから発せられる攻撃的な声援、応援が選手の闘争心に火をつける。スタンドから発せられるエネルギーが効果的に選手に注入されるのが駒場であろう。そのエネルギーはなにも選手だけではないと思う。スタンドで見ている観衆にも注入される。主にゴール裏から発せられるそのエネルギーは指定席に座る私にも注入されるし、テレビで見ている私にも注入される。サポーターが発するエネルギーとは、選手だけでなくレッズを応援する人々にも注入され、そのエネルギーは「ファン」を「サポーター」に変化させる。
 
ワールドカップが開幕するまで約3週間となった。3月から日本代表のゲームがホームで4試合おこなわれた。海外で活躍する小野や中田英というスタープレイヤーがいないにもかかわらず、チケットは即時完売となった。Jリーグのチケットよりも高価にもかかわらずだ。チケットのプレミアム化は昨今の話ではない。私自身、最後に日本代表のゲームに行ったのは1998年の横浜国際の柿落としとなったダイナスティカップの日本対中国戦である。これは友人が都合してくれたもので、彼も苦労したようだ。企図されるたびに行きたいという願望はあるが、それはなかなか果たせないでいる。
 
話がずれてしまったが、チケットのプレミアム化と代表ゲームの応援にはある種の関係が存在するのではないだろうか。チケットが入手困難になると、従来から日本代表を応援という形でサポートしてきた人々に影響を及ぼすということだ。すなわち、サポーターグループの陣容に変化をもたらすということである。「ファン」層と「サポーター」層の逆転が起こりつつあるのではないだろうか。上記の定義によれば、「ファン」とは、選手の行動に一喜一憂し、戦況が怪しくなれば、選手よりも先に戦意喪失してしまい、戦況が好転するのを祈ることで待つ。スタジアムにおける「ファン」層と「サポーター」層の相対的な位相の逆転は、スタジアムの雰囲気を変えてしまう恐れがある。サポーターが発する選手を鼓舞するエネルギーが選手に届かず、「ファン」層に吸収されるのだ。
 
この理論(?)を見出す、あるいは確信に近いものを得たのは今年の日本代表のゲームが契機となった。ホームで行なわれた4試合をテレビで見ているうちに何か違和感を覚えたのだ。そう、戦況が怪しくなると、スタジアムが静まり返るように感じられた。特に、ホンジュラス戦はそうだ。ゲームはホンジュラスが主導権を握り、日本代表は後手を踏み、非常に苦しい展開であった。苦しいときにこそ選手を鼓舞する応援をするのが「サポーター」である。「サポーター」の発する応援がテレビから伝わってこなかったのは気のせいだろうか。レッズの中継のときは、「サポーター」が発する応援はみごとに私に伝わってくるし、ときには、放送席の会話すら途切れさせることもある。この差異は、上述した「ファン」層と「サポーター」層の位相の逆転が引き起こしたものではないだろうか。
 
私がさらなる危惧を覚えるのはワールドカップのことを想像してしまうからだ。親善試合なら、お目当ての選手を応援するだけの「ファン」層が多くても影響は少ないだろう。しかし、ワールドカップは別であろう。ワールドカップはいわば各国のサッカー文化が問われる場でもある。とくに、今回はホスト国としての参加だ。ホスト国の最低限の課題は決勝トーナメント進出である(ことになっているようだ)。決勝トーナメント進出するためにはグループリーグを突破しなければならない。日本が属するグループには、ベルギー、ロシア、チュニジアがいる。ベルギーは一流とまでいかないが、なかなか老練なチームだ。ロシアも一流とまでいかないが、いざというときの集中力は一流だ。チュニジアは未知数だけに楽観視は危険だ。メンバーを見ると、一見グループリーグ突破は容易に思えるが、それは楽観しすぎだ。前回大会で悲願のワールドカップ出場を決めた日本は、世界からすれば、後進国である。ベルギー、ロシアは激戦のヨーロッパ予選を戦い抜いてきた。いわば世界を知っているのだ。特に、この2チームと戦うのはかなりの苦戦が予想される。
 
サッカーではホームチームが有利であるとされる。それは、ホームチームの「サポーター」が集結するからだ。「サポーター」の発する応援がなによりも選手を鼓舞するのだ。スタジアムに集まった「サポーター」のエネルギーが選手に注入され、それが選手だけでなく、スタジアム全体を揺り動かすのだ。ホームの利を生かすには、スタジアムに集まった人々が「サポーター」にならなくてはならない。苦戦を強いられそうなグループリーグで、戦況をかえられるのは「サポーター」の力であろう。日本の決勝トーナメント進出の鍵を握っているのは、「サポーター」である、とは言い過ぎであろうか。
 
ワールドカップは、ホスト国たる日本サッカーが問われるだけでなく、サポーターの質も問われる。「ファン」から「サポーター」への変化がワールドカップによってなされる可能性は高い。なによりも重要なことは、自発的に「ファン」から「サポーター」への変革をなしとげなければならない。「ファン」から「サポーター」への転換が行なわれたときこそ、はじめてチームを愛することができるのではないか。チームを愛している、といえるのは「サポーター」だけに許された特権かもしれない。