「横山大観」展

先日、東京国立博物館の平成館で開催されている「横山大観−その心と芸術−」を見た(3月24日まで)。横山大観という知名度もあるが、平日昼間にもかかわらず、老若男女問わず、賑わいをみせていた。
 
横山大観は日本近代絵画の礎を築いたと目されている人物である。大観の作品をみると、和洋折衷が特徴であるといえるかもしれない。日本の伝統的な作風である狩野派水墨画を基本とし、西洋画のような鮮やかな色彩を使う。
 
大観の作品に「夜桜」という屏風絵がある。今回の展覧会の目玉とされているものである。ただ、私にはそれほど激賞されるほどすばらしい作品には思えなかった。理由は次のとおりである。
 
一つ目は構成に問題がある。空間の取り方、いわゆる「間」がない。屏風いっぱいに桜や松、山などをびっしり描いている。それゆえ、焦点がややぼやけてしまう。
 
二つ目は、一つ目と関連するが、松が大きく前面に鮮やかに描かれているため、夜桜のすばらしさが減じられていることである。かがり火でたかれ、月光で漆黒の山に浮かび上がる桜を描きたかったに違いない。松が鮮やかすぎて、桜の美しさと相殺されているのだ。それゆえ、絵の焦点がぼけてしまっている。
 
三つ目は、直接屏風絵と関係がないと思われるが、館内の照明が問題であったと思われる。暗すぎるのである。明治期にガス灯が輸入され、日本全体が明るくなった。大観が絵を描いた場所も江戸時代に比べ明るかったに違いない。以前指摘した問題(第40回参照)の逆である。照明が暗すぎるゆえ、松の鮮やかさが余計目に付いたのかもしれない。夕刻のほの暗さが鑑賞するのに適していると思う。
 
大観は「富士山」を多数描いている。この中の逸品は「日出処日本」である。これは非常にすばらしい。感激のあまり、立ち尽くしてしまった。富士山と太陽のバランスがよい。朝焼けの太陽の美しさとそれに負けぬ威厳をはなつ富士山。二つの強さがみごとにプラスの方向を示している。「夜桜」とは逆である。
 
大観の人物画もすばらしいものがある。「無我」や「屈原」は有名であり、そのすばらしさには異論はない。ほかにも、「大楠公」や「日蓮上人」もこれらに劣らない。内に秘めた意志をみごとに描いている。「日蓮上人」に関していえば、これは日蓮が母国安房の鋸山日本寺で開宗の祈願をした場面である。日本を法華経で救うという堅い意志をあらわしているのだ。
 
水墨画についても、大観は多数描いている。中国の風景を描いた連作がよい。大観の山好きがよくでている。山と、麓あるいは雲のバランスが非常によい。雪舟の影響を受けていると思われるものもある。
 
全体的に、大観の作品には描いている状況が想像できるものが多い。その時々の思いなり、思考が絵の表現にでている。言いかえれば、大観の魂が見えるのだ。大観曰く、「心の命ずるところに手が従ってこそ、始めて事物の形象と霊性との、渾然たる相を表現する事が出来るのである」(『日本画と作家の精神』)、あるいは、「富士を描くということは、富士にうつる自分の心を描くことだ。心とは、ひっきょう人格にほかならぬ。それはまた気品であり、気はくである」(『私の富士観』)。大観は絵を描く側の心持ちを示したのであるが、逆に、鑑賞する側にも同様の素養が必要なのではないか。大観は、心で描いた絵は心で見なければならない、とも述べ、絵画を媒介とした画家と鑑賞者の心の交流を求めたといえるだろう。時代を超えた画家との交流には、画家が生きた時代の様相を知ることも肝要であろう。画家が生きた時代を知ることで、作品のコンセプトを知ることが可能になるだろう。