シービスケット

シービスケットは、1930年代のアメリカ競馬の主役であった。そう、わが国に当てはめれば、オグリキャップが適当かもしれない。競争成績もさることながら、種牡馬成績も似たようなものだ。
 
オグリキャップとの違いは、オグリが地方競馬で圧倒的存在で、その勢いで中央を席巻したのに対し、シービスケットは、見放された馬が関係者の努力によってその能力をいかんなく発揮できるようになったことだろう。
 
競馬は、はためからみると、不可解なことが生じることが多い。それは単なる情報不足がからくるものが圧倒的なのかもしれないが、厩舎側でも想像していない結果になることもある。オグリの復活劇なども当てはまるかもしれない。ただ、拙い知見から思いつくことは、誰かが必ずその馬が走る、という絶対的な信頼を持って競走馬に接しているからこそ、成績が不本意でも激走することもある。
 
シービスケットが支持されたのは、サクセスストーリーだけでなく、ヒール役がいたからだと思う。当時のヒール役を担わされたのは、ウオーアドミラルという馬だ。アメリカの歴史的名馬マンノウォーの血をひく良血馬だ。競馬はブラッドスポーツと言われるように、血統が重視される。ウオーアドミラルは血が示すように東海岸の圧倒的存在だった。シービスケットは主流の血統で構成されていないため、生い立ちからみられるように関係者からほとんど期待されていない馬だった。零細血統でも時折爆発的な成績を残す馬がいる。その代名詞がシービスケットだ。
 
シービスケットが零細血統にもかかわらず良績をあげられたのは、競馬の主流ではなかった西海岸で調教されたからかもしれない。強い(と思われる)馬は東海岸に行くので、西海岸にはそれほど強い馬が集まることは少ない。馬主がロサンゼルスで事業を行なっていたことが西海岸を主戦場として走ることになったのだろう。
 
シービスケットを読んでめぐり合わせの重要性を感じざるをえない。どういった人々がどのように関わるかによって流れが変わる。そのあたりの背景は映画のみでは窺い知れないのは残念だ。ただ、競馬がもつ激しさ、迫力を感じるには最高の一本だろう。競馬場ではなかなか感じることのできないレース中の厳しさを教えてくれる。『シービスケット』という本を読んでからではないと、理解に苦しむことが多いだろう。映画「シービスケット」は映像の迫力のみしか評価できない、というのが妥当なところだと思う。このへんが私を映画から離れさせるポイントなのである。