円山応挙展

タイトルからすると、応挙の作品が一挙に見られる印象が強い。江戸東京博物館は行ったことがなかったので、二つの意味で楽しみだった。
 
展示室にはがっかりだった。なによりも狭い。ちょっと離れてゆっくり見るには不相応な会場。狭いがゆえに人の流れが滞り、不快感を増加させる。また、上野あたりの美術館の客層と違った人々がいるように思えた。狭くて、せわしない、という状況は現代の東京の特徴であり、「江戸東京博物館」という名にふさわしいかもしれない。
 
展示室の作品も、入れるだけ入れてみました、というのが明らか。展示スペースが少ないので、作品の展示替えが多く、狭くてせわしないという環境を何度も味わうと思うと気がめいる部分もある。おまけに、見たいものが東京開催では展示されない、という残念な一面もある。博物館という名をもっているが、絵画などの環境に左右されやすい作品には展示環境が悪いように思えた。国宝が展示されない背景には、展示環境が悪すぎるのかもしれない。応挙の金銭的パトロンであった三井の所有していた作品が引き継がれている三井文庫の所蔵品が少ないのは残念だ。やはり、応挙の傑作を見るには三井文庫へ行かないとダメなのかもしれない。
 
と不満ばかりになってしまったが、国宝・重文が少なくても、やはり応挙。応挙をまとめて味わえるのは爽快だ。応挙の素晴らしさは、写真のような絵が多いところだろう。幕末まで写真がなかった時代に、写真に代わるものは絵でしかない。肖像画がもてはやされたのも写真がないからだ。写真はある風景や状況の瞬間を切り取るのに便利である。応挙はそれを絵で表現している。応挙が想像したものも、彼にかかれば実在するように見えてしまう。
 
写真的、といってもいくつかの特徴があげられる。人物、動物、風景。人物画一つとっても、老若男女バラエティに富んでいる。動物も鳥、犬、虎、龍。虎や龍は応挙の想像で書いているから、別にしても、どこか愛らしくみえる。虎は猫をモチーフに書いているから、その獰猛性はみられない。風景も、水墨画が多いが、国宝の雪松図のように色をつけたものにも逸品が多い。空間の配置もさることながら、切り口がすばらしい。切り口のうまさは、奉公期の眼鏡絵によるところが大きいのだろう。 
 
いずれにせよ、応挙の作品をとりあえず見たい、というならこの展覧会に行く価値はあるだろう。ただ、応挙の作品を味わうには、展示環境が悪すぎる。