「雪舟」展

ちょっと遅くなってしまったが、「雪舟」展を振り返ることにしよう。
 
雪舟といえば、日本を代表する画家である。彼の画はあちらこちらで目にする機会が多い。それゆえ、この50年ぶりの展覧会には多くの人が見にいったようだ。私が見にいったのは会期末であったから、平日にもかかわらず、1時間待ち、となっていた。なにゆえ、それほどまでに彼の画は人々を魅了するのだろうか。そのあたりについて、ここでは言及してみようと思う。ちょっと抽象的になるかもしれないので、具体的な内容については、カタログや『芸術新潮』2002年3月号を参照されたし。
 
雪舟について述べる前に、今年開催された展覧会を振り返ってみよう。具体的には横山大観長谷川等伯である。
大観は、
水墨画についても、大観は多数描いている。中国の風景を描いた連作がよい。大観の山好きがよくでている。山と、麓あるいは雲のバランスが非常によい。(きまぐれエッセイ・2002.03.07)
等伯は、
それは空間のバランスのよさであろう。描かれた対象は無論重要であるが、その対象をうかびあがらせる間の取り方がよくなければ描かれた対象のよさはひきだされない。日本画、とりわけ屏風となると、その「間」、「空間」といった要素が非常に重要になってくる。(中略)描かれた対象とそれをとりまく空間のバランスが重要である、ということだ。描かれた対象のパワーは見た目に明らかであるが、それをとりまく空間のパワーも重要である。描かれた対象とそれをとまく空間の力関係は表裏一体のものでなくてはならない。(きまぐれエッセイ・2002.03.29)
と述べた。この二人の画風から導き出せるのは、水墨画、とりわけ山水画に逸品が多いということである。私が何故逸品と判断するのか。それは、対象と背景のバランスに優れている、と思われるからだ。等伯や大観は、境界線をぼかすことで幽玄な感覚をかもしだしつつ、対象と背景のバランスを保った。ただ、抽象度を昇華させた点においては等伯の方が優れているように感じる。また、両者に共通するのは、「雪舟」に深い造詣があった、ということである。すなわち、雪舟の描いた水墨画山水画)が、雪舟後の山水画の道を定めたといえるかもしれない。山水画とは何か、を雪舟が示したということである。等伯山水画を自然の幽玄美妙に見出し、大観は山や松の美しさに見出した。いわば、雪舟こそが日本山水画のルーツであるといえるだろう。
 
今回の雪舟展を見て、一番に感じたことは、既述したように、対象と背景のバランスがすばらしいことである。物理的な遠近感は別にしても、雪舟の見た(見えた)風景がそのまま画面に描き出されている。私は物理的な遠近感にこだわらないし、こだわろうとは思わない。なぜなら、絵画とはその正確性を問うものではなく、画家の見た(見えた)ものが描かれているからだ。目から入ってきた情報をそのまま出力するのではなく、「心の命ずるところに手が従ってこそ、始めて事物の形象と霊性との、渾然たる相を表現する事が出来るのである」(横山大観日本画と作家の精神』)。いわば、対象をどのように感じたのか、ということが問われるのではなかろうか。
 
話がずれてしまったが、雪舟の画は境界線をはっきりさせても、ぼかしても、空間的なバランスは失われない。勢いで描いた画でも同様である。確かに、彼の画は悪く言えば雑である。しかし、そうした画でもすばらしく見えるのはなぜか。「雪舟」という名に潜在的に影響を受けるのだろうか。それもないとはいいきれない。だが、なにげなく描いたものでも、画面に描かれた対象は決して悪いものではない。雪舟の目(心)に映し出された対象を、そのすばらしいと感じる部分を適切に抽出して描いているからこそ、人々に感動を与えるのかもしれない。
 
雪舟からつらなる水墨画山水画)の流れのキーワードは、(1)空間的バランス、(2)対象の抽出の仕方、(3)心眼で見ているか、であると思う。目に見える風景から、空間的なバランスを保ちつつ、感動を覚える部分を抽出して描く。この手法のスペシャリストが雪舟であり、その根本的な部分で理解したのが等伯であり、大観であるのだろう。