「聖徳太子」展

先日、東京都美術館で開催中の「聖徳太子展」を観覧した。聖徳太子がメインということで、さすがに注目度が高い。なぜこの時期に?という疑問あったが、どうやら、没後1380年とのこと。
 
内容は、題名のとおり、聖徳太子にまつわるものがほとんど。主に次の3つにわけられるだろう。一つは聖徳太子にまつわる寺の仏像。二つ目は聖徳太子の像。三つ目は聖徳太子の生涯を描いた絵伝。
 
聖徳太子は数々の寺を建立したが、なかでも代表的なのが、法隆寺四天王寺である。四天王寺は太子が蘇我馬子と組み、物部守屋と敵対したときに建立した寺であり、法隆寺は太子晩年の寺である。私が注目したのは太子・馬子対守屋の構図である。太子派は百済からもたらされた仏教派といえ、守屋は従来の神道を擁護する立場、と宗教戦争の面を呈しているからである。その戦の勝利を祈願するために作られたのが四天王寺である。太子22歳。この四天王寺から展示されていた品のなかで印象深かったのが、「国宝・七星剣」である。長さ約62センチメートルとそれほど大きくないが、7世紀のものとは思えないほど保存状態もよく、品位がある。刀身には北斗七星が描かれ、竜雲文などがあしらわれ、絶品である。法隆寺の「七星剣」(国宝)も展示されていたが、こちらもすばらしい。なによりも鞘が残っているのがすばらしい。刀身だけでなく、鞘にも北斗七星が描かれている。ちなみに、四天王寺は鉄製であり、法隆寺は銅製である。法隆寺の物品は今年の1月に行なわれた「法隆寺展」とほぼ似た内容。有名なものばかりでここでは割愛させていただく。
 
仏像についてあるが、観音像と菩薩像で占められる。なかでも半跏像が目立つ。仏像で国宝に指定されている中宮寺の菩薩半跏像は逸品である。受験日本史では有名な仏像であるが、実物を見たのは今回がはじめて。なによりもこの菩薩半跏像が今回の目的でもあった。高台に鎮座する菩薩半跏像はえもいえぬ雰囲気をかもしだす。約1200年の時を経たとはとうてい思われない保存状態。仏像に塗られた漆が輝き、すばらしい美しさを発揮する。毎日大事に磨かれてきた証拠であろう。ひさびさに美しき仏像に出会えた気がする。仏の頂点に君臨する大日如来とはちがい、なによりもそこに表れているのは優しさであろう。菩薩は仏になりきていない状態を表現したものである。この菩薩像は思惟形でもあり、目を閉じ、少し視線を下げている。思惟形であるが、なにか菩薩像の前に立つと、菩薩様がすべてをつつみこんでくれる、つまり、自分の悩めるものをすべて受け入れてくれるような気がしたのは、考えすぎだろうか。この菩薩半跏像を見た時点でほぼ今回の目的は達せられた。
 
聖徳太子の像はいくつかに分類できる。太子2歳の姿をあらわす「南無仏太子像」、角髪(みずら)を結った成人前の姿をあらわす「孝養(きょうよう)像」、成人後の笏(しゃく)を持った姿をあらわす「摂政像」、35歳のとき勝鬘経(しょうまんぎょう)を講義する姿をあらわす「勝鬘経講讃像」などがある。これらの多くは14世紀につくられたものばかりであった。この時期は太子の700回忌であったようだ。また、これらの像は絵画にも描かれた。これらの多くは太子と彼に従う二王子が描かれたものである。これらの中で有名なのは法隆寺の「南無仏太子像」であろうか。ふくよかな顔立ちのなかに、鋭い視線を表現し、意志の高さをあらわしている。さらには、右足を若干前に出してつくられている。幼年期から太子自身の意識の高さを表現したものであるといえるかもしれない。
 
絵伝の多くは厩での誕生から物部合戦、摂政時代、晩年を描いている。これらの絵伝は太子信仰を表すものが多い。しかも全国各地で描かれ、太子信仰が全国津々浦々にいきわたっていたことが分かる。これらの絵伝あるいは絵画のなかには、空海親鸞が頻出する。これらの絵をみている時に考えたが、自分が考えた仮説は次のとおりである。日本において仏教が国教となったのは聖武天皇東大寺建立であるといえよう。ただ、これ以前には仏教が存在していた。仏教伝来は6世紀であるが、太子が物部合戦に勝利するまで仏教は日本のメジャーではなかった。太子が百済をつうじて仏教を広めることができたのも物部合戦に勝利したからであろう。太子は三経義疏という仏典の解説書を著した。三経義疏とは、法華経勝鬘経維摩経のことを表す。いわばわが国における仏教の開祖であるといえるのではないだろうか。最澄空海の二人によって、仏教が基礎づけされ、鎌倉期の法然親鸞と発展をみた。いわば、この3人がわが国の仏教の本流ではなかったか。それだからこそ、太子にまつわる絵には空海親鸞がえがかれてきたのであろう。