浦和レッズと私

自分がレッズを見るようになったのは、通常の人々と同じく、Jリーグ開幕の1993年からである。当時高校3年生。前年にはドーハの悲劇があった。ドーハの悲劇を生中継で見、ワールドカップ出場の困難、日本代表のレベルを知った。1990年のイタリア大会は見た記憶がある。イタリアのブルーのユニフォームを覚えているだけだ。
 
レッズは1992年の天皇杯でベスト4に入る快進撃を行った。誰もが開幕年は優勝争いに加わるであろうと予想し、私もその一人であった。しかし、である。周知のとおり、1993年は最下位に終わった。直接的な敗因としては獲得した外国人が奮わなかったことだろう。そう私は当時理解した。外国人が活躍すれば、と翌年に期待した。だが、1994年も状況は変わらなかった。レッズは負け続ける。「Jリーグのお荷物」と揶揄され、レッズサポーターというのがちょっとはばかれた。「レッズ?弱いじゃん」と言われるのがオチだった。しかし、そう言われれば言われるほど、逆にレッズに傾倒したことは間違いない。
 
1994年のアメリカワールドカップでどれほど外国人を物色したか。この選手が欲しい。どれほど思ったか。そう、ワールドカップを見ているときは、まるでスカウトのような気分だった。
 
この年は、競馬において、平成初の3冠馬が誕生した。ナリタブライアン。全国の競馬ファンはこの怪物誕生に沸いた。皐月賞、ダービー、菊花賞有馬記念を圧勝し、歴史に名を刻んだ。私は競馬ファンであるが、この年は浪人中で、レッズよりも競馬、競馬よりも勉強の日々であった。もちろん、レッズのゲームは欠かさず見ていたが、当時のレッズよりもナリタブライアンに傾倒していた。
 
そんな中、レッズに待望の外国人選手がやってきた。ギド・ブッフバルト。1990年世界を制した西ドイツ代表のディフェンダーである。1995年はレッズの快進撃の予兆を感じた。ミスターレッズ・福田が日本人として初めての得点王に輝く。32得点中14得点をPKによって得た。そのほとんどは自ら勝ち取ったものである。PKで得点王になった。そう言われもした。しかし、そう批判する人々のうち、どれだけ福田のプレーを見たであろうか。PKの数は他の選手より抜きんでて多い。しかし、である。福田のペナルティエリアでの動き、位置取り、読みが彼にPKをもたらしたのである。相手を一瞬にして交わすスピード。得点するための嗅覚や判断力。すべてがかみあわさって得点王になったのだ。福田こそ最高のフォワードだ、と今でも思う。福田がいるだけでどれだけレッズが盛り上がるか。相手を威嚇できるか。1996年からの快進撃は福田抜きには考えられなかった。
 
前線で福田がゴールを決めれば、最終ラインでゴールに鍵をかけるのがギドだった。赤い壁。これが彼に与えられたニックネームである。彼がいれば守備を気にしなくてもよい。そんな感じすらあった。この二人を中継したのがウーベ・バインであった。バインがいなくなってからはベギリスタインがその役を担った。
 
ギドは最後尾からチームに檄を飛ばした。彼がレッズを戦う集団に変えた。ギドがいなかったら、今のレッズはないだろう。レッズの歴史に金字塔を打ち立てた選手の一人である。いつの日か、レッズの監督としてレッズを強くしてくれることを願う。
 
このころのレッズは安心して見ていられた。まさに我が世であった。私もレッズサポーターであることを誇りに思った。我慢してきたものが一気に爆発した感じだった。これはレッズサポーターならみな感じたことだろう。
 
アメリカ大会からジョホールバルまでの期間はJリーグにとって、氷河期に入りつつあった。Jリーグ創生期からのにわかファンが消え、日本のサッカー文化が試される時期でもあった。Jリーグ全体で観客動員数が減少傾向にあった。そんな中でレッズだけは違った。常にホームゲームは満員御礼。チケットはプレミア化した。レッズの快進撃もその一端を担っただろう。
 
浦和レッズをまじめに(?)追跡し始めるのは、やはり1999年である。ギドがレッズを退団し、監督は原博実に代わった。原監督のコンセプトは攻撃的サッカーであった。まさにこのコンセプトは私のイメージにマッチした。フランスワールドカップを見るため、家にNHKのBSを導入した。このBS−1で現在でも放映しているのがリーガ・エスパニョーラ、すなわち、スペインリーグである。スペインリーグはスピード・アンド・チャージ。どれだけ点を入れるか、ゴールを見る歓びにかなうリーグであると私は解している。この攻撃的サッカーを繰り広げるスペインリーグと原監督が目指すサッカーは私の中で一致した。レッズの持ち味のスピードを生かし、貪欲にゴールを狙う。多少の失点はかまわない。サッカーはゴールがすべてといっても過言ではないだろう。ゴールこそサッカーの華である。
 
ただ、原監督が目指すサッカーは困難をきたした。1998年はそれほど悪い内容ではなかったが、1999年になると、ケガ人などの要因から勝ち星をあげることが徐々に困難になった。1999年は自動降格システムが開始された年である。原監督は1999年のファーストステージの成績不振から更迭された。ただ、この更迭は不可解に思われた。原監督は決して致命的なミスは犯さなかったし、監督と選手との信頼関係は悪くなかった、というよりも良好であったという。この更迭劇により、レッズの監督にはオランダのア・デモスが就任した。デモス監督の目指すサッカーというものは私にはよく分からなかった。このセカンドステージは勝負であった。なんとか降格を避けたい。これはレッズのサポーターの切実なる願いであった。このホームページでもこのセカンドステージを詳細にレポートした。数年前のレッズと開幕当初のレッズ。わずか1,2年足らずで激変した。なによりもギドの退団が大きかった。もともとレッズは体質的に甘いところがある。プロ意識というか、試合に賭ける意気込みやら、集中力に欠けていたように思う。この構造を打開したのがギドであった。ディフェンスラインのギドの叱咤激励がレッズを戦う集団にした。このギドの退団により、ギドの役割を担う人物がいなくなった。これでレッズは元に戻った。しかも、熱血漢の原監督が更迭されたことにより、レッズの悪い部分が表出したように思う。
 
周知のとおり、レッズはJ2に降格した。小齋秀樹氏の『Goalへ』を読んでもらえればその辺の内部事情がわかるだろう。2000年のシーズンは1年でJ1に復帰し、J1で優勝を狙えるチームを作ることが目的であったはずだ。ただ、私のJ2観戦記で再三述べたような戦術、勝利へのあくなき執念は感じられなかった。小齋秀樹氏の著書もそのことを述べていた。
 
2000年11月19日にサガン鳥栖にVゴール勝ちをし、J1復帰を果たした。その試合は非常に感動的であったし、ドラマチックであった。ただ、その感動もしばらくして醒めた。つまり、J1復帰を決めるのになぜ最終戦までもつれたのか、が問題であった。まあ、その問題は小齋秀樹氏の著書を読んでもらうと理解できるだろう。
 
2001年3月10日。レッズが2年ぶりにJ1の舞台に帰ってきた。現在のところ、J1のスピードに慣れていない感じがするが、それは言い訳にすぎない。あくなき勝利への執念。これを取り戻すことが当面の課題であろう。悲願の優勝へ向け、レッズは動き出している。レッズと私の関係は永遠に続くであろう。今のレッズにはジュビロや鹿島のような強さはないけれども、世界中のクラブのなかで輝きに満ちている。一言で言えば、魅力。レッズ独特の魅力に魅せられた私はもうレッズと離れられない。ちょっと変な言い方かもしれないが、欠点が有り続けたから、レッズを愛するようになったのかもしれない。