読後感:日本経済新聞運動部『敗因の研究』

スポーツの世界だけでなく、勝者の記録は語り継がれる。ただ、勝者の影には多数の敗者が存在する。敗者にも二通りあるだろう。勝利を期待されて負けた者ともともと期待されていない者。この著書は前者の敗者にスポットを当てている。
この著書でおおきく取り上げられいるのがオリンピックである。特に、前回アトランタオリンピックの女子競泳陣。長野オリンピックのスキージャンプ。マスコミや世論は金メダルの量産を期待したし、選手も疑わなかった。ただ、結果はといえば、周知のとおりである。敗因は何か。そこに言及し、選手たちの苦い辛い記憶をたどっているのがこの著書である。

オリンピックが約2ヶ月後に迫った。オリンピックとなると、老若男女問わず熱中、いいや盲目といえるほど興奮する日本。世界選手権などではあまり関心を持たない人々もオリンピックでは違う。日本というアイデンティティを感じるのが唯一オリンピックであろう。東京オリンピックの幻影が国中に漂っているのかもしれない。バレーボールは特にそうだろう。東洋の魔女と呼ばれた時代から30年以上経とうとしている。特に女子バレーボールはそうだ。連日くりひろげられた応援には悲壮感さえただようのはなぜだろうか。若手タレントを会場に呼び、出場できなければどうなるかわからない、というような状況を作り出す。会場に足を運ぶ人々はタレントを見にくる。バレーボールが目的ではなく、タレントのコンサートに来る感覚である。ただ、競技を結果的に観戦して、興味をもってもらうという作戦にはよい方法かもしれない。ただ、そうした人々が作り出す会場の雰囲気はどのように選手に影響を与えるのだろうか。テレビ局も視聴率を稼ぐだけでそのようなことを考えていないのだろうか。

選手は選手であって、タレントではない。中にはタレントのように振舞う選手もいるが、ごくわずかであろう。マスコミ、世論のプレッシャーは計り知れないものがあろう。選手の活力となるような応援が期待されているといえるだろう。オリンピックに対する過剰な反応が選手を惑わせるともいえるかもしれない。オリンピックがスポーツの祭典ではなく、ただの祭りにおちいってはいないだろうか。

勝負には敗因がつきものである。特にオリンピックのような国際的舞台では日本の力は弱い分野が多い。結果に一喜一憂するだけでは進歩しない。個人の問題であるのか、組織的な問題であるのか。根本を詰め、批判し、応援する姿勢が必要ではないか。素晴らしいプレーには拍手し、悪いプレーには応援するチームであってもブーイングをする。スポーツを見る目を観客が養わなければならない。オリンピックで活躍を期待するなら、普段からのレース、試合で応援し、批判し、お互いに進歩を遂げる必要があろう。ただ、これには長い年月がかかる。特に、サッカーはそうであろう。ヨーロッパ諸国の強さは歴史が生み出したものであろうし、それには観客やマスコミ、識者の鋭い批判があったからこそ現在の強さがあるのだろう。これから日本で養う能力は観戦能力であろう。