読後感:山崎豊子『沈まぬ太陽』

この著書は日本航空の内実について書かれたものである。この著書の中では国民航空と表記されているが、ここでは日本航空と表記する。
物語は1960年代から始まる。入社8年目の恩地元が労組の委員長として活躍する時期であり、彼は労働者の立場から、労働環境、たとえば、賃金、空の安全を守るための現場の環境などを訴え、団交で経営陣と交渉し、要求を通した。交渉決裂の際は伝家の宝刀・ストライキを敢行してさえも空の安全を守ることを訴えた。この背景には経営陣の空の安全よりも自身の保身・既得権益の保持などがあったことはこの物語を一貫して述べられている。

恩地の人生はこの労組委員長を務めることによって凋落の一途、すなわち左遷をたどる。彼がこうした左遷の人生を送る直接的な原因は首相が乗る飛行機をストで止めたことであり、この事件は経営陣の陰謀であった。スト予定日は首相がのる飛行機の次の日であったが、その日を一日ずらすことでストの日が首相の海外に出発する日になったのだ。このような委員長時代の行動は2年後の人事異動に大きな影響を与えた。その人事異動によってパキスタンのカラチという僻地に飛ばされることになったのだ。海外出向は本来栄転であるにもかかわらず、カラチという僻地に飛ばされたのはまさに報復人事であった。労組の活動がアカのレッテルを貼る機会であったし、それが彼の人生に半永久的に続くことになる。カラチでの勤務は2年間という内規があったにもかかわらず、その内規を無視され、カラチにつづきイラン、さらにはケニヤにナイロビに飛ばされた。カラチ時代は妻子と過ごしていたが、子供の関係でナイロビは単身赴任であった。ナイロビに支店はなく、恩地一人ですべてをこなさなければならなかった。たった一人という孤独感をまぎらわすものはアフリカの自然であり、ハンティングであった。

恩地が日本を出てから10数年がたち、ようやく日本に戻る機会が訪れる。それは労組と関係していた。彼がアフリカにいるころ、経営陣は過激な労組を解体するために新たな御用組合を創設し、新労組に加入しないと出世をさせないという人事を敢行した。そんな中、中央労働委員会に恩地が10年以上海外僻地勤務をしているという議案書が提出され、その中央労働委員会の勧告を経営陣が受け入れ、恩地は日本に戻れることになった。

恩地が日本に戻ってきて最初に起こった重大事件が日航機墜落事故であった。520名の死者を出した未曾有の事故は会社の不健全性を社会に示す契機となったのだ。恩地が訴えつづけた空の安全は経営陣に受け入れられることなくこの事故が起こったのである。空の安全を確保するためには現場や整備の万全を期す行動が必要なのにそういうコストを削減し、利益をあげようとする会社の方針は完全な整備を行わずに飛行機を飛ばしていたことへのツケが事故につながったのである。恩地は事故後、御巣鷹山の事故現場で遺族の世話、接待をする仕事についた。彼は遺族の接待を行う中で、数々の罵声はもちろん、遺族の深い悲しみをともにあじわうことになった。遺族の遺体収容後の問題は補償金であった。彼は補償金係として大阪に出向する。そこで彼が直面したものは遺族の悲しみに沈んでいる姿はもちろん、当事者の親戚の補償金に対する執拗さ、会社の体制を批判する、こうしたものはどこにでもみられた。しかし、彼にとって印象的だったのが、息子夫婦・孫を失った老父であった。老父は幾度も補償金の受け取りを固持していたが、そのうち出家し、巡礼の旅にでたのである。

恩地が遺族係をしているときに経営陣が入れ替わった。会長は関西で紡績業を営む国見、社長は運輸省からの天下りの海野、副社長は子会社に出向中の三成である。この3人を中心として会社の改革が行われることになった。会長の提案で会長直属の会長室が創設され、恩地はそこに部長としてよばれた。会長はこの会長室を中心として、労務問題、整備問題などの体質改善を行うことになった。恩地ははじめ、会長室に入ることをこばんでいたが、会長の空の安全に対する心に心打たれ、入室することになった。恩地が会長室に呼ばれたことで、社内でぬくぬくと過ごしてきた新労組に衝撃がはしる。恩地は旧労組のカリスマ的存在であった。すでに対立の芽は生えていたのであった。

会長の指導力で社内に蔓延している不正の横行が指摘されはじめると、既得権益保持のために会長を追い出す運動が陰で始まる。会長が呼ばれた理由には総理大臣から直々に指名をうけたこと、労務問題を解決することであった。しかし、労務問題の責任者に社長がうってでることになったが、解決の糸口すらみつけられない。こうして1年がすぎ、最大目標であった労組問題の解決は会長追い出し派の妨害もあり、会長は志半ばで辞任する。それにともない、恩地は再び会社の主流派から外れ、再びナイロビへ異動ということになり、この物語は幕を閉じる。

世間ではこの物語を権力と結びつけているが、私としてはこの点は以外にもいくつか特徴を指摘できると思う。一つは特殊法人の体質である。二つ目は自然への畏怖である。

著者が恩地を主人公にたてたのは、特に特殊法人の本質を浮き彫りにするためではなかろうか。特殊法人という政府に守られる企業ということを盾にして、民間ほど利益やコスト削減、信用の保持を行うこともせず、子会社をいくつも作り、そこを通じて甘い汁を吸い、官僚や政治家と癒着する。この物語で数回出てくる関西財界のドン・宮内がいうように、「あの会社は末期癌だ」という言葉はまさに日航の内情を一言で述べている。こうした親方日の丸体制の日航に対し、民間の全日空の追い上げに恐々として自らの体制を改善しようとせずに官僚や政治家の力を借り、たとえば天下りの受け入れや多額の献金、接待などを通じて全日空の追い上げを妨害しようとする。その一方で、社内の健全化を図ろうとする会長をあらゆる手でつぶそうとする。この特殊法人という温床・ぬるま湯につかった企業を変えようとすることは容易ではなく、また民営化も経営をさらすことができないということで遅々として進まない。健全化を図ろうとする人物には完封なきまでに叩き潰す。御巣鷹山の事故の責任問題もまさにこれにあてはまる。日航という日本を代表する企業がこのような内情を抱えていたことにショックを受ける。

恩地がナイロビに赴任中にアフリカの自然を愛していたことはすでに述べているが、会長室時代に不正調査のためにニューヨークに飛んだときのシーンは印象深い。ニューヨークにはブロンクス動物園があるそうだが、そこにはアフリカ・ゾーンという領域がある。恩地はアフリカを思い出し、そこへ脚を向ける。彼は帰り道にエイプスハウス(類人猿舎)に立ち寄る。この中を進むと、「GREAT APES」というところがあり、そこではゴリラやオランウータンが収容されている。その中に「鏡の間」があるのだ。そこでは、人間の上半身が映る鉄格子のはまった鏡がある。その鏡の上には次のように記されている。「The Most Dangerous Animal in The World」。このことばこそ人間に対する警鐘とうけとれまいか。さらにこのように公然と皮肉をいえるアメリカの器量。これこそ自然に対する畏怖をあらわすものはない。

この物語で連綿と続く不正とそれを超える自然。まさに釈迦の手のひらで踊っている人間の不正はなんとちっぽけなものか。現在でも手のつけようのない、まさに、「末期癌」のような特殊法人は多い。戦前戦後と脈々と受け継がれてきた政官財の鉄のトライアングルを崩すのは容易ではないが、それを打ち破り日本の健全化を目指す政治家の出現を望む。