読後感:村野まさよし『東京は日本一ビンボーである』

この本を読んではじめに頭をよぎったことは、「地方分権は不可能」だということである。政府や地方自治体、学識経験者、マスコミが「地方分権」の大合唱をしている現状と、「地方」自治体は(地方の地方自治体のこと)「中央集権」万歳している状況を比べると、そこには大きな埋められないギャップが存在する。そのようなギャップを作り出している要因の一つは「地方交付税交付金(以下、交付金)」と「補助金」である。他の要因はいくつか考えられるが、この著書にふれられていないので、この場ではふれないことにする。
この著書の特徴は「交付金」の現状、特に各地方自治体の交付金に対する考え方が述べられている。地方交付税交付金に関して詳しく書かれた本は地方財政などの分野に多くみられるのでそちらをご参照されたい。代表的なものとして、和田八束・野呂昭朗著『現代の地方財政』(有斐閣、1992年)や西尾勝村松岐夫編『講座行政学第5巻』(有斐閣、1994年)などがあげられる。この著書の構成は次のとおりである。第1章と第3章では交付金の使い道について、第2章では東京都に関して、第4章は地方の地方自治体の極楽ぶり、第5章では、東京都選出の国会議員を招いての座談会、である。

現在、地方自治体のなかで地方交付税交付金をもらっていない自治体は東京都や神奈川県、などのごく一部の団体である。地方交付税交付金は各地方自治体の歳入に不平等が生じないようにするために交付されるお金であり、収入の少ない地方自治体は交付金を多くもらえるし、収入の多い自治体ほど交付金は少ししかもらえない。すなわち、人口が多く、企業の本社が多い自治体は税収が多いため、交付金が少ないし、過疎地ほど多くもらえるのだ。これは平等な地域発展を望む政府の政策からきている。であるから、地方の選出国会議員の方が圧倒的に多いため、交付金補助金は地方へと流れる。そして、総理大臣を輩出する地域ほど交付金補助金の額が多い。たとえば、新潟県田中角栄岩手県鈴木善幸島根県竹下登、そして、首都圏の一部とされている山梨県には金丸信が、といったように、有力自民党議員が存在する(した)自治体があるところは配分が多い。逆に、都市部では与党である自民党の国会議員が少ないため、その圧力活動の影響力は少ない。このように、自民党の国会議員の力が補助金交付金の配分に影響を与えているのだ。

この著書では住民一人当たりの所得と交付金の配分を例示し、この自治体間格差に言及している。そして、地方自治体のバブルぶりを写真をまじえ、住民や首長の声を織り交ぜて述べている。すなわち、交付金によって地方自治体の経営が成り立つという状況になっているのだ。交付金がなければ、即刻倒産する自治体が多いのだ。逆に、東京都は一人当たりの所得が日本一であるから、交付金も日本一少ない。具体的な数字をだすと、一人当たりの所得は141万円にたいし、交付金は14万円である。東京都は払い損なのだ。東京都の場合、公共事業はほとん都の財政から出資し、補助金交付金の割合は圧倒的に少ないため、その効果的な利用はできていないのだ。そして、東京都は財政危機宣言をだした。

この著書を読んで感じたことは冒頭にも述べたように、「地方分権は不可能」だということが明らかになったことである。現在の多くの自治体は地方分権が行われることに対して困惑しているというのが正しい見方であろう。財政をほとんど中央政府にたよって、その政策能力はまったくない、何の自立性もない、こんな状況では地方分権はできない。このような「痴呆」自治体に自立性を求めるのも不可能に近い。しかし、全国各地で地域で独立しようという運動が起こっている。九州独立や埼玉、三重、宮城などの首長の積極的な動きなどである。こうした自治体があるだけまだ救いである。財政的格差は交付金によって埋まるかもしれないが、政策や行政政策の立案・実行能力の格差はますます増加するに違いない。「痴呆」自治体、なんとも的を得ているネーミングにただただ関心するばかりである。少しでも「痴呆」自治体が減少し、地域活性化ハコモノではなく、ソフト面で充実することを祈るばかりである。