読後感:河上亮一『学校崩壊』

この著書は学校、特に、中学校の実態を明らかにした衝撃の書といえるだろう。この著書は、現在中学校が直面する問題を具体例や著者の体験を交えて述べられている。この本の構成は第1章で現状分析、第2章で少年事件に関しての著者の考え方、第3章で第1章より踏み込んで著者の体験をもとに現状分析している、第4章でマスコミ批判、まとめ、となっている。
第1章から現在起こっている学校の様子が描かれ、衝撃的な事実がのべられており、驚きを隠せないものである。現在起こっている学校内部の問題は「子供の性質の変化」が原因であるとこの著者は指摘する。数十年前の校内暴力と比較し、その変化を次のように述べる。校内暴力の時代には、「教師と生徒、生徒と生徒のあいだに、それなりの意思疎通があった」が、現在の子供は教師からの接触に対し、反応がない。しかも、現在の子供に共通することは、①ごく基本的な生活動作ができない、②男子はひ弱に、女子は手におえない、③他人を非常に怖がる、といったことが指摘されている。このような子供の変化というものは、社会的な規制力が働かなくなった、すなわち、地域共同体の崩壊に原因があるのではないかと主張している。この地域共同体の崩壊は高度経済成長期の人口が農村から都市に流出した人口の流動化と直結する。

第2章では代表的な少年事件、すなわち、神戸と黒磯で起こった事件を取り上げ、その被疑者がほかの生徒とかわらない、ごく普通の子供であったという特色をあげている。つまり、「非行歴がない“ふつうの子”がある日突然凶悪犯罪を引き起こす“いきなり型”が最近の特徴である」と警察庁の報告に筆者は同意しているが、私もそう感じる。また、学校外部だけでなく、学校内部でも「新しい荒れ」というものが見受けられると指摘する。

こうした分析から著者はある一つの結論に達する。それは、現在の学校は民主主義や平等主義の普及によって、社会の延長上にすぎなくなった、ということである。本来、社会と学校というものは明確に区別されるべきものであるにもかかわらず、現在では同一空間上にあるのだ。その結果、学校や教師の権威が失墜し、それが子供の育成に悪影響を与えているのだ。

一方で、第4章で取り上げられているマスコミ批判は的を得ているように思われる。マスコミの批判はえてして学校に対して行われており、また、現在のような状況を生み出したといえる。子供の性質の変化という大切な視点を無視し、すべて学校の責任にするといったマスコミの態度を痛烈に批判する。そして、現状を変えるための方策もまた、子供を無視したものが多いと指摘する。たとえば、教師の授業方法が悪いとか、40人学級が悪い、といったことである。確かにこの指摘は間違ってはいないが、ものの本質を突いていないと筆者は指摘する。

これから少し私なりの考えを述べようと思う。私は昨年、高校で教育実習を行ったが、高等学校という場所を考えても、少しおかしな状況になってきているといえよう。たとえば、教科教育に対する態度はあまり変化が見られないが、特別活動に対する態度というものが変化していると思われる。この本で述べられている変化というものは年齢が上がる高等学校ではあまり当てはまらないのではないか。実際、私が担当したのは3年生であり、それなりの気構えなり、考え方がしっかりしてきているころである。これが中学校という背伸びする時期ではもっと著者が述べている変化が顕著であろう。この変化をもたらしたものはやはり、著者が指摘する地域共同体の崩壊であろうし、マスコミの態度である。小学校や中学校の子供たちに人権やら権利やらを主張する権利はほとんどない。社会に対して義務や貢献、責任をはたしてこそ、自分の権利を主張できるのだ。大人はその義務をはたしているからこそ社会に対して主義主張ができるのである。子供は教えられ、諭され、叱られて社会とはこういったものなのだというイメージを身につけることが必要なのである。そして、学校こそがそうした指導の場であり、社会に旅立つための修練の場なのだ。この本で述べられているように、学校は父性が7割、母性が3割という指摘はまさに正しいといえるだろう。本来マスコミが批判すべき対象は学校という現場ではなく、こどもをだめにする文部省の方針や家庭教育に向けられるべきである。現在行われている文部省の教育政策はまさに有用ではなく、有害である。文部省が主張してきた「ゆとりある教育」がもたらしたものはなにか。現状が語っているように、子供をバカにすることである。社会に対する責任を育むのではなく、自己中心主義をもたらしたのである。この子供たちが10年後、社会に出るとき、果たしてどのような人間になっているのだろうか。末恐ろしいことになりそうだ。