人にものを尋ねるということ

今日(5月29日)は人に道なり場所を2回尋ねられるという珍しい日であった。それも私が通う大学の周辺の出来事である。一人は錦華公園の近くで「御茶ノ水駅」への道筋をおばあさんに、もう一人は大学生協の場所を尋ねられた。後者の方は大学のOBで、久しぶりに大学に来てみたという。卒業して18年(正確に答えてくれた)ということで、大学の周辺も大きく変わったといっていた。そのころの生協は現在の小川町校舎にあったのだ。私も生協に用があったので同行したのだった。
 
「人にものを尋ねる」という行為はいくつか分類できるだろう。一つは、純粋に分からないという場合である。二つめは、自分で探すのは面倒だから聞いたほうが早いという場合、三つめは「確認」という行為、四つめは出会いを求めてという場合、の4つが考えられる。
 
まず、一つ目の場合をみてみよう。純粋に分からないというケースは、自分で探したのだが分からないということを意味する。これは新しい場所に来たときに生じる場合が多いようだ。たとえば、私なんかは埼玉県に住んでいるので、東京に来た場合はまさに"I am stranger here."という感じだ。これは私が埼玉に住んでいるからではなく、見知らぬ地に来た場合に誰でも感じることである。私はアルバイトでビルの受付をしているが、場所を探して来る人が多い。特に住所がにていて混乱する人が多い。このようなケースであると、人にものを尋ねるという行為は正当性をもつ。すなわち、自分で努力したが、どうしても分からないので、終にとる手段として「人に尋ねる」という行為を行ったということである。
 
二つめは「探す」という行為を省いた場合である。いいかえれば、努力をしないことである。その理由はいくつか考えられる。第1の理由は、「急いでいる」という状況にあることである。時間的におしている場合は自分で探すよりも人にきいたほうが早いので、この2つめのケースを正当化する。第2の理由は単にめんどうだということである。自分で探すのはめんどうだから人に尋ねた方が楽であるということである。これは最近多いようである。大人だけでなく、子どもにもいえることである。子どもの場合をみてみよう。たとえば、数学なり算数の問題を解いているとしよう。宿題で算数ドリルを解くという課題が与えられ、20問とかなかくてはならない。1問、2問と解いていくうちに、だんだん面倒になってくるし、問題のレベルもあがり、分からなくなってくる。教科書なりノートを見れば簡単に分かってしまうのに、その見るという行為が面倒になるので、すぐ親に聞く。親に聞けばすぐに分かると子どもは知っているので、そのような行為をするのである。この例が示すように、めんどうだから聞くという行為は自ら努力するという行為を放棄しているのだ。しかし、めんどうだから聞くという行為はその場では分かっても、次に似たような状況になったとき、自分で解決することができない。すなわち、自分で解決しないことは次の似たような状況に遭遇したとき、また同じような行為、人に尋ねるという行為でしか解決できなくなるのである。
 
第3は自分では知っているが、不安だから人に尋ねるということである。これは、久しぶりに来た土地で、あそこにあったはずだが、確認のために聞いてみよう、という心理状態で起こるものである。私のバイト先ではこのケースが多い。他社の人や業者の人がここだっけ?という感じで聞いてくるのだ。
 
第4は、自分では探し方や解決方法が分かっているのに、あえて聞く、聞くという行為をすることで、相手に面識なり、インパクトを与えるだろうという魂胆のもとで生じるケースである。これは相手が異性であることがほとんどである。
このように、相手にものを尋ねるという行為は様々な理由から行われる。私はなにも「人にものを尋ねる」という行為を否定するというわけではない。その人にものを尋ねるという行為に至るまでが重要であると主張したいのである。人にものを尋ねるという行為に至るまでにどれだけ努力したか。それが重要である。問題解決能力や問題解決するための自己努力がそれである。現代の人々にはこれが欠けていることが多いように見受けられる。自分で解決しようとすることは、その行為に対してある程度の責任が伴う。面倒だからという理由で人に尋ねた場合、相手が間違ったことを言っていたときはその責任は相手にあるのか、否、自分にあることは当然の論理である。これは私が考えることだから、否定する人もいるだろう。しかし、相手に間違って教えられて損するのは自分であるということをきちんと認識しなければならない。「人にものを尋ねる」という行為はそれだけリスクが伴うものである。