日本対韓国 観戦記(1)

宿敵、韓国をアウェーで下した日本は、というより、ジーコが一番ほっとしたことだろう。この試合である程度の結果が残せなければ、批判の一つや二つあってもおかしくない。この試合で得た結果は、勝利のみにすぎない。しかも、勝利を決めるゴールが、日本にとってみればラッキーであったし、韓国にとってみればアンラッキーだった。
 
私自身は、この試合でジーコのコンセプトが分かるとは思ってもいなかった。選手の自主性を尊ぶ。無論必要なことである。選手たちが自ら考え、相互に理解しあうこと。確かに、トルシエと比べればジーコのカリスマ性は高く、選手時代の実績も高い。トルシエは常に背水の陣で望み、実績がないゆえにホラを吹くこともあった。あるいは、自分自身にプレッシャーを与え、自らを鼓舞していたのかもしれない。それゆえ、明確なビジョンを示し、選手を思い通り動かし、指揮官としての能力を示そうとした。
 
方やジーコはどうであろうか。かずかずの名声をほしいままにし、サッカーの歴史に名を刻む人物である。野球界で名選手が名監督でないときもあるように、サッカーでも当てはまるかもしれない。私は、ジーコが監督を務めるだけの能力がないと言うわけではなく、ジーコから明確なビジョンが見出せないでいることが不安でたまらない。一つだけ見出せるとしたら、ジーコが選手のイマジネーションや相互理解ができるまで何もしないかもしれない、ということである。逆に言えば、ジーコは代表選手を選ぶだけで、あとは何もしないかもしれない。それでは、チームとして成り立たない(ジーコのコンセプトが浸透しない)ので、長年指導してきた鹿島の選手を攻撃や守備の要に配し、鹿島の選手を通してコンセプトを浸透させようとしているのではないか。ここまでくると、深読みしすぎかもしれないが。
 
すると、この韓国戦は司令塔に小笠原を配したことで、中盤が機能し、攻撃のイメージが選手間で共有できたのかもしれない。前半は、韓国に押されつつも、極度にバランスが崩れることもなかったし、時折、決定機を作り出すことができた。ウルグアイ戦では、ジーコから直接指導されてきていないメンバーが主であった。それゆえ、ジーコから明確なビジョンを示されていないために、攻撃における柔軟性が発揮できなかった。すなわち、ジーコがイメージするものと選手がイメージするものが乖離し、選手自身、どのように攻撃するか、というイメージが共有できなかったのではないか。
 
とすると、Jリーグでは敵見方である選手たちは、逆にお互いのプレー研究し、試合では互いのプレーを肌で感じることができる。それゆえ、イメージの共有度は高いのかもしれない。結論からいえば、攻撃のイメージの共有こそ、この試合のポイントであるかもしれない。
前半は典型的な4−4−2のフォーメーションで、バランスは悪くなかった。韓国のペースであったものの、適度に選手間の距離が保たれ、中盤を支配されることもなかった。ただ、両サイドの選手が引き気味であったから、両サイドの選手の前にスペースができ、そこを韓国に利用され、最終ライン付近で圧倒される場面も多々あった。
 
後半はどうか。後半から奥が入ると、中山の1トップ気味になり、中盤に、三都主、奥、小笠原と3人がフラットになり、攻めのスピードが落ちる。ボランチ中田浩と福西のポジショニングが悪く、前に3枚攻撃的MFがいるからか、ディフェンスラインとの間にスペースができてしまう。テレビから見ると、フォーメーションが3−3−3−1のように見えた。両サイドバックのどちらかがあがったときに、ボランチがサポートに入ることなく、最終ラインが3枚になる状態が続いた。すると、最終ラインが左右に間延びし、韓国にいいように攻撃される状況が生まれるシーンが目についた。3−6−1のフォーメーションを組む韓国は、日本の両サイドにスペースが生まれるため、両サイドの選手があがりやすくなり、攻撃時に1対1の状況を作り出すことができた。韓国のフィニッシュの不正確さに日本は助けられたといってもよいだろう。
 
終盤になると、ホーム韓国が勝利するために全体的に攻撃に重点を置き、ディフェンスラインのポジショニングも自然と高めになる。すると、韓国のディフェンスラインとゴールキーパーとの間に広大なスペースが生まれる。このスペースを生かしたのが日本。広大なスペースを与えると、真価を発揮するのが永井。スピードあるドリブルで韓国ディフェンダーを振り切り、ロスタイムのゴールにつながる。
永井については別稿で述べる。
 
この試合でジーコの功績を挙げるとすれば、前がかりになった韓国の状況を見極め、スピードある永井を投入したことであろう。
 
と、ここまで記述している間に、私の中で、ある閃きが生まれた。この閃きは、冒頭の記述を覆すものかもしれない。だが、確証はない。その閃きを述べてみよう。
 
奥の永井へのパスは、Jリーグで対戦しているがゆえのパスだったかもしれない。互いに研究することで、互いの特徴をつかむことができる。互いの特徴が分かっていれば、試合の中での状況判断さえ間違えなければ、決定機は作れる。それを初めてみせたのが永井のゴールであるかもしれない。某スポーツ新聞には、永井が来るべき時のために常に代表の試合を研究していた、という記事が掲載されていた。この地道な作業こそが重要なポイントとなりそうだ。かすかであるが、ジーコがイメージするサッカーが見えた気がする。選手がいつ代表に呼ばれても、日ごろの研究を積み重ねておけば、互いの特徴が分かるゆえ、プレーのイメージの共有が図れる。それがジーコの求める前提条件ではないだろうか。観戦中は分からなかったが、この条件を見出すことができたのは、この試合を分析して記述し、整理することができたからかもしれない。