ワールドカップ雑感

サッカーの祭典、ワールドカップが終了してから、はや1ヶ月が経った。Jリーグが再開し、4年後のドイツ大会への道程が始まった。
 
ワールドカップが開幕する前、いくつか危惧していたことがあった。このエッセイの中でも述べてきたことだ。
 
(1)負けている状況をどう打破するのか。
(2)フラット3を含む守備をどうするのか。
(3)観客はサポーターになれるのか。
 
(1)について。
強国と戦うとき、あるいは、昨年来の試合を思い浮かべてほしい。先制すれば、ほぼ勝利。先制されれば、引き分け。これがホームゲームの戦跡である。その象徴的なゲームがウクライナホンジュラス戦である。特に、ホンジュラス戦は先制されても、追いつき、引き分けにもちこめた。何度も食らいつける精神力を得たと評した。だが、勝てなかった。これは、本大会のベルギー戦に結びつく。ベルギー戦では、先制されるも、逆転する状況までいったが、結局引き分けた。ロシア戦は、先制することができ、勝利に結びついた。これも昨年来のパターンと同じである。チュニジア戦は近年稀に見るすばらしいパフォーマンスを見せた。これは例外かもしれない。
 
トルシエは危機的状況が生まれると、フリーズしてしまう。リードしているとき、明らかに相手が格下のときは、余裕があるせいか、みごとな采配をするときがある。これは本大会前の姿であった。だが、本大会の予選リーグは別人だった。トルコ戦にはもとにもどってしまった。そう、(1)の危惧は、トルコ戦に象徴された。トルシエは負けている状況を打破する術をもっていなかった。スターティングメンバーが変更されたことは一つの敗因でしかない。トルシエもまた途上の監督だったのだ。アフリカ、日本とサッカー途上国を世界で戦うレベルにまで引き上げることしか経験していなかった。それゆえ、日本もトルシエも本大会では未知の領域を打破することはできなかった。韓国がベスト4になったのは、ヒディングの力が大きかった。ヒディングは勝ち方を知っている。トルシエは決勝トーナメントの勝ち方、戦い方を知らなかった。知っていても、経験していなかった。
 
(2)について。
 
フラット3がハイリスクを伴う守備であることは明らかである。だが、中盤を支配することができれば、攻撃の際に数的優位をつくることができる。オフサイドトラップを効果的に利用することで、相手の攻撃力を減少させることができる。あくまでも中盤で数的優位をつくり、インターセプトあるいは、ボール支配を優位に進めることが前提条件となる。

今年に入り、カウンター、あるいは2列目からの飛び出しによって、失点するケースがみられるようになった。とくに、ノルウェー戦では、かたくなまでのラインディフェンスにこだわることで、3失点した。ノルウェー戦の観戦記で述べたように、ラインを維持するか、あるいは、ブレイクするのか。その判断ができていなかった。とりあえず、ラインを上げる。そのような考え方に縛られていた。だが、森岡が復帰したスウェーデン戦はどうか。相手の攻撃パターンを分析し、ラインの維持やブレイクを自在に操っていた。いわば、トルシエがもたらしたフラットなラインディフェンスを進化させたパターンを見せた。それは無論のこと、森岡だけの殊勲ではあるまい。守備的ハーフとの連携が肝心である。森岡と宮本がフラット3の中心としてどちらが優れていたか、という問いは意味がないはずだ。トルシエの考える守備陣形をマスターしていて、なおかつディフェンスラインを統率できるのは二人だけだからだ。ただ、あくまで憶測だが、宮本はトルシエに従い過ぎていたかもしれない。宮本がそのことに気づき、フラットなラインを固持することを放棄することになったのが、守備的ハーフとの対話だった。ロシア戦、チュニジア戦において、宮本は森岡に匹敵する思考を手に入れ、それを実行した。宮本がリザーブに甘んじていたのはラインをブレイクする勇気が足りなかったかもしれない。宮本が守備的ハーフと対話したとき、そして、お互いに理解を深めたとき、日本の守備は完成の域に達したのかもしれない。

日本の守備が、戦前に危惧されていたほど、破綻をきたしたとは思えない。日本が守備的にゲームを進めれば、強国相手に引き分けにもちこめるだけの力量はある。ただ、守備的に、あるいは、強国に勝つ、というとき、日本に足りないのは、攻撃のオプションだ。攻撃のオプションを増やすために、トルシエは数的優位を用意した。攻撃の局面で数的優位を作り出すことができれば、得点機会はふえるかもしれない。ただ、その先の攻撃オプションは用意されていなかった。数に恃むことでも堅守なディフェンスは崩せなかった。それを打破することができるようになったとき、日本はサッカー強国の仲間入りができるだろう。攻撃をする際の創造力がこれから期待されるところであるし、ジーコにも求められることになるだろう。

(3)について。

この点については、まさに不安が的中した。「サポーターの見方」という項目で述べたように、観客はサポーターたりえなかった。日本戦はチケットがとれなかったので、テレビ観戦だった。テレビからは、応援の力が伝わってこなかった。「ニッポン」コールは届くが、それが体を震撼させるほどのスケールはなかった。特に、トルコ戦は不発だったようだ。
 
ただ、これは観客が悪いとかそういう話ではないような気がする。座席が全部指定であり、グループ観戦がほぼ不可能。ワールドカップで初めてサッカー観戦をする人も多い。サポーター枠での抽選が少ない。いろいろ羅列すればこのような要因があるだろう。ワールドカップはどのようなものか、という雰囲気を楽しむ傾向が強かったのではないだろうか。サッカーが生活の一部になっていない国での開催では、ホスト国になって初めてサッカーに触れる人々が多いため、サッカーの見方が分からない部分が多いのだろう。観客はあくまで見るだけであって、選手、チームをサポートするという概念が少ないのだろう。苦しい状況で、一緒に苦しむのではなく、鼓舞させることができるかどうか。苦しい状況でも、私は応援しています、という態度を表明するには、祈るポーズをとっても選手には通じない。一番分かりやすいのは、声を出すこと、声援を送ることだろう。観衆4万人のエネルギーはとてつもなく大きい。それがプラスの方向に向けば、スタジアムは燃え上がるし、マイナスの方向に向かえば、スタジアムは重苦しい雰囲気に包まれるだろう。
 
無論、ファンとしての観客を否定しているわけではない。ただ、チームの勝利を願うとき、苦境に立たされているとき、応援したい、という気にならないのであろうか。愛する対象が、苦境に陥っているとき、応援したい、という自然な行為が、サッカーでは生かされてはいないような気がする。いわば、チームを愛しているのではないのだろう。
 
自分が浦和レッズのファンであり、サポーターであるからこのような思考になってしまうのだろうか。