オリンピック観戦記-柔道篇-

今回のオリンピック柔道はさまざまな意味でみどころ十分であった。女子48キロ級の田村と男子60キロ級の野村の金メダルで始まり、疑惑の銀メダリスト篠原で終った。
 
田村は3大会越しの悲願達成。野村は連覇。田村亮子の場合、オリンピック以外では無敵を誇っていたのだが、どうしてかオリンピックでは常に銀。さらなる飛躍を目指し、外部のプレッシャーに負けず、また自らプレッシャーをかけ、切磋琢磨したことが今回の金メダルにつながったといえるだろう。常に女子柔道を引っ張り、その責任を果たしてきた。まさに国民栄誉賞ものである。
 
また、女子柔道の若手の台頭もめだった。日下部、上野といった世界選手権でもそれほどの活躍を見せなかったが、オリンピックという舞台で花を咲かせた。アテネにつながる内容、経験であった。
 
男子は苦しんだ試合が多かった。中村兄弟、吉田。世界の実力者・経験者にもオリンピックの魔力は働いた。ただ、ピークが過ぎた感は否めない。その一方で、野村・滝本・井上・篠原の強さは世界を圧倒した。並み居る強豪を一本でしとめる。日本柔道の真髄を見た感じだ。
 
日本人の活躍もさることながら、今回の(今回だけとは限らないかもしれないが)オリンピックは「柔道」と「Judo」違いが浮き彫りにされた感がある。自分流に解釈すれば、「一本」と「ポイント」である。自分が剣道をしていることもあるが、一本にこだわってしまうし、選手も一本にこだわるのだろう。鮮やかな一本勝ちが観客を感動させるものであり、柔道の華やかさを表現するものである。
 
外国人の腰を引いて、相手の反則を待つ。反則のポイントで勝利する。技をかけたふりをする。一本でももてがり、朽木倒しが多い。もちろん、金メダルをとるための戦略なのかもしれない。しかし、試合はつまらない。
 
こうした試合内容に加え、審判のジャッジ基準が統一されていない面も多々あった。象徴的なのが篠原の決勝である。試合内容には不満がないが、審判に試合の価値を失わされた感が強い。後の先である返し技、すかし技。確かに、高度でスピードが速く一瞬の出来事であるがゆえに、ジャッジが難しいものがある。しかし、その決定的瞬間を見落とすようなジャッジがまかりとおることは許されることなのであろうか。こうした行為が柔道のレベルを下げるきがしてならない。あの試合に審判は3人おり、内股すかしを一本としたのは副審一人だけであった。他の二人は見逃したのである。この二人は今後もこの返し技に一本を与えないかもしれない。
 
もちろん、一番いいのは圧倒的な強さをみせつけ、わかりやすい一本をみせつけることである。だが、えてして格の違いをみることはまれであり、多くの場合は力が均衡している。力が均衡しているがゆえに、ジャッジが重要となってくる。
 
このようなジャッジ基準はグローバルスタンダードなのかもしれない。しかし、今後の柔道の発展を考えると、ジャパニーズスタンダードを採用するほうが望ましい感じがする。審判の重要性をひしひしと感じたオリンピックであった