最近読んだ本から

最近、読書する時間が増えた。これにはいろいろな理由があるわけで、逆にいえば、暇になったのかもしれない。
 
理由の一つは、大学院を修了して、研究する時間がほぼなくなったこと。二つ目は、7月の埼玉県の教員採用試験が終わり、来年への決意を新たにし、その試験中のストレスを時間とともに解消していること。三つ目は、アルバイトの勤務日数を増やしたこと。三つ目は会社の就労形態を変えたことが影響している。会社では、「保険組」といっており、いままでは自分で払っていた国民年金国民健康保険を会社の、厚生年金、健康保険に切り替えた、ということだ。この切り替えにより、勤務日数に制限がなくなった。といっても、労働基準法の規定があるから、無制限というわけではないが。
 
こうした理由で、自分の費やす時間に、今のところ、多く割けるようになった。昨年から、購入した本と読んだ本の記録をつけている。無論、前者の方が多いのだが。購入の基準は、おおよそ四つある。エンターテイメント、いわば、小説。二つ目は、研究者の道をあきらめたわけではないので、行政、政治の専門書。三つ目は、教員採用試験向け、というか、もともと教育に関心がるから、教育関係書。四つ目は、趣味、スポーツや美術、社会、など。
 
小説は、もっぱら、電車や就寝前に読む。鞄には、必ず1冊は文庫がしのばせてある。文庫ならどこでも手軽に読める。
 
今、はまっているのが、ディック・フランシス。彼が描く世界は、競馬だ。基本的にミステリーに入るのだろうが、その舞台が競馬。イギリスの競馬が舞台ということもあり、障害レースが多い。イギリスでは、障害レースが平地とならび活発だ。障害レースの中で、特に権威あるいは規模が大きいのが、グランドナショナル。全長7200メートルのコースで、完走する馬が出走馬の半分以下という過酷なレース。このレースの勝者が障害競馬のチャンピオンとなる。日本でも、障害競走の活発化がおこなわれ、4月と12月の中山大障害では、海外からの参戦も増え、認知度は高まっている。週刊少年マガジンで連載されていた、井上正治『JUNPMAN』は良い例だろう。個人的には、おもしろいと思い、長期連載か、と思っていたが、読者には不評だったようで、打ち切りが早かった。障害というジャンルが難しいのかもしれない。本島幸久『風のシルフィード』のようにはいかなかったようだ。また、KKベストセラーズから刊行されている、『競馬最強の法則』では、障害コラムが定期化している。話がずれてしまったが、フランシスの本はまだまだ読み足りないので、個人的に評価下すには時間がもっとほしい。競馬本については、別途述べよう。
 
ほかには、宮部みゆきがあるが、彼女については、既に述べているので、そちらを参照されたし(第46回)。幸田真音もおもしろい。経済小説だが、自身の経験に基づいた緻密な取材が文面からにじみでている。ただ、小説という描写にはまだまだ不満ののこる部分がる。じょじょに良化していると思うので、今後に期待したい。最近、『有利子』という本が出たみたいだ。
 
小説ではないが、養老孟司のエッセイもおもしろい(文春文庫)。養老孟司は解剖学者だ。それゆえ、彼の視点は脳にある。都市は脳が作ったものだ、というのが根幹にあるようだ。はっとさせる記述があるから、やみつきになる。たとえば、海外で水にあたったときは、とにかく吐いて胃を洗浄するのがよい、薬なぞ飲まなくても治る、という荒治療を勧める。現代ではなににつけても薬がよい、という流れがるが、薬に頼らなくてもよい面、あるいは、身体の自然治癒に任せることもありだ、というふうに考えることもできる。ただ、子供のころから薬漬けの人には難しいだろう。このように考えるのは私であって、養老孟司ではない、ことは述べておく必要はあるだろう。話があっちこっちいってしまうが、養老孟司の『「都市主義」の限界』(中央公論新社)は興味深い。都市は脳が作ったものだ、という考えを論理的に進めるのがこの本だ。環境問題、都市開発、といった現在の重要問題と合わせて読むと理解が深まるだろう。
 
文庫の次に手軽に読みやすいのが新書だろう。値段といい、サイズといい、手に取りやすい。新書で気になった本をいくつかとりあげてみよう。
 
柘植雅義『学習障害(LD)』(中公新書)は、ある意味でパラダイム転換を提示する著書だ。従来、身体に障害をもつ子どもは、養護教諭のもとで指導がおこなわている。いわば、身体に障害をもつかどうかで、教育方法が分かれていたわけだ。柘植は、現在の子どもは身体だけの障害にとどまらないことを提示する。すなわち、精神面での障害だ。おちつかない、授業中に歩き回る、計算は得意なのに文章理解はできない、音楽は天才的だが通常の教科学習ができない、といったものも障害の一つとする。これをひとくくりに、学習障害(LD)という。ということは、たいていの子どもは障害を有している。その障害をどのように見極め、どのような方法によって教育をおこなうべきか、という議論が必要だ、とする。この点で、教育のパラダイム転換を示していると思う。集団教育と個別教育の分かれ目が子どもごとに違う。それに柔軟な対応をするには、どのような教育行政が必要なのか。現在の子どもがどのような障害にぶつかっているか、を知る好著だ。
 
三池輝久『学校を捨ててみよう!』(講談社+α新書)は、やや疑問が残る読後感となった。いいすぎかもしれないが、子どもの現状を脳の病気に集約しすぎているように思える。著者が医学部教授だから、そのような結論に達しているのかもしれないが。子どもが疲れ果てている、という状況は学校がもたらしたものだ、だから、学校を捨てよう、とは意訳しすぎだろうか。子どもの慢性疲労を学校におしつけるという論理は支持できない。学校だけに集中するならば、子どもは極度な疲労は感じないはずだ。週休2日制になり、休日も増えた。問題は、学校外での活動が子どもを休ませないことにあるはずだ。この視点がこの著書の重要な欠落部分だ。たとえば、塾。『週刊東洋経済』(2002年8月3日号)では、塾の特集がくまれた。中学、高校、大学それぞれの受験で子どもが受けるストレスは多くの場合有益ではないとされる。最近では、私立の高校は中学からの入学試験しか行わないところも多くなってきた。それゆえ、中学受験が高校受験よりも過酷となるケースもある。あるいは、公立は、受験に適さない、荒れている、ので通わせたくないから、小学校で苦労しても中学受験で私立に通わせたい、という親が存在するのは事実である。週休2日になった影響で、平日の授業の終了が遅くなり、塾の開始に間に合わないから、学校まで迎えにいって、車で着替えさせて塾にいかせる、という親の告白も掲載させていた。このような状況こそ子どもを慢性疲労の状況に追いやっている要因の一つである。
また、三池は、学校の役割を教科学習に絞っているように思われる。学校は、教科学習だけを指導しているわけではない。学校は一つの社会であり、社会へ巣立つための準備期間であるはずだ。集団での生活をまなび、学校に入る前には体験したことのない他人とのコミュニケーションを学ぶ場であるはずだ。さまざまな人間がおり、それを理解し、生活してゆく術を学ぶ。学校生活の一環が教科学習であって、それがすべてではない。この点も三池の著書には欠落している重要部分だ。いささか理想がすぎるかもしれないし、自分が学校で教員として働きたいという意思をもっているからそのように考えるのかもしれない。
  
神野直彦『人間回復の経済学』(岩波新書)は、人間回復という視点から新古典派経済学を批判する。この著書のキーワードは、ホモ・サピエンス(人間)とホモ・エコノミクス(経済人)だ。ホモ・エコノミクスは経済至上主義を標榜する新古典派をさす。市場原理主義は、人間性を損なっている。人間が人間らしく生活するには、ホモ・エコノミクスではなく、ホモ・サピエンスの経済をとりもどすことが必要とする。そこで、スウェーデンの例を持ち出す。無論、スウェーデン方式を絶対に採用すべきだとはいっていない。ただ、スウェーデンでは著者が考えることがほぼ実施されている。ひいては、日本の不況状況打破にとって、スウェーデンは参考になるのではないか、とスウェーデンの例を提示している。金子勝セーフティーネットの必要性を主張しているが、神野と金子が共著をいくつか出しているのも、お互いの考え方が似通っているからかもしれない。
 
ここまで書いて、いささか疲れたので、これで終わりにしましょう。後日、追記するでしょう。