20世紀の名馬-牡馬篇-

昨年、JRAから20世紀の名馬が発表された。これらは競馬ファンが投票したものから選出されたものである。選出された馬たちはやはり一時代を築いたものばかりであった。私はこれに特に異論があるわけではない。私が好きな馬、感動を受けた馬が選ばれているからである。ただ、私が、短い期間ではあるけれども、見てきた約7年間の競馬においてもすぐれた馬たち(私にとっての)がいたことは否定できないであろう。その馬たちについてこれから述べようと思う。
 
私は関東に住んでいることから、東京競馬場に行くことが多い。ひまをみつけては府中に行く。府中で行なわれる主要なレースはなるべく競馬場で見ることにしている。府中はコースが広く、それほど不利がなく、それぞれの馬がそれぞれのもつ力をいかんなく発揮できる形態となっている。特に、府中の2400メートルはその最たる例であるように思われる。府中の2400メートルのレース。それは日本ダービージャパンカップオークスである。そのなかでも、ダービーとジャパンカップは他のGⅠと違い、日本最高峰のレースだと私は思う。いや、そうではない、有馬記念だ、菊花賞だ、天皇賞だ、という人々もいるかもしれない。無論、それらのレースも無視はできない。それぞれのレースも毎年毎年充分に楽しんでいる。ただ、この二つのレースは本当に力がある馬、騎手、調教師、血統、などさまざまなファクターがうまく融合・結合できなければ勝利することができない。
 
ダービーはまさにその最たる例であろう。超一流騎手がダービーだけは勝てない。武豊もそうであった。ダンスインザダークのときはあと一歩というところでフサイチコンコルドに差された。このレースがあったからこそ、彼がダービーを2連覇する最大の要因であったようだ。ダービーに勝つ。たった1つのレースに優勝するのに最低でも1年はかかる。めぐりあわせ、天気、コンディション、臨戦過程。それらの要素がすべてうまくいかなければならない。それがダービーを優勝することに価値がある所以であろう。武豊のダービー制覇に関する記述は各所で述べられているのでここでは述べないが、やはりスペシャルウィークは私をしびれさせるに充分な馬であった。スペシャルウィーク。なんともよい名前ではないか。ダービーの週、天皇賞の週、ジャパンカップの週。彼をみた東京競馬場で私も特別な週末を送れた。特に、5歳時の3つのGⅠ勝利はすべてパーフェクトであった。天皇賞春はまさに完璧。天皇賞秋は前走の不振があったからこそ、武豊の技、戦略で優勝ができた。ジャパンカップは当時欧州最強馬・モンジューを下した。宝塚記念有馬記念グラスワンダーに屈したが年度代表馬にふさわしい1年だったと思う。
 
武豊がスベシャルウィークでダービーを制したように、ダービーはすべての要素が揃わなければ優勝できない。60数回を数えるダービー史上で、初めて府中でダービーを観戦したのが第60回日本ダービーであった。優勝馬ウイニングチケット栗東伊藤雄二厩舎)、勝利騎手・柴田政人、である。このダービーはウイニングチケットのほかに皐月賞ナリタタイシン、後の菊花賞馬・ビワハヤヒデの3強が激突したレースである。このレースを見ればわかるように、まさに4コーナーから直線にかけてまさにウイニングロードがひらけた。ウイニングチケットの前が開いたのである。ウイニグチケットと柴田政人はそこを通るだけでよかった。弥生賞でみせたあの末脚をそのまま見せつけるだけでよかった。柴田政人に「ダービーを獲ったら騎手をやめてもいい」と言わしめたそのレースは彼の執念がまさに勝利への扉を開かせたのだった。このレースは私がみた(生で)なかで最も輝いていたものである。競馬は馬だけではないと思わされたレースでもある。
 
ダービーを異次元で終えた馬もいる。それはナリタブライアンである。私は3歳時は確かに朝日杯は優勝したが、それほど強烈に強いという印象はなかった。しかし、4歳になってこの馬は変わったように思う。雪の影響で移動した共同通信杯皐月賞の前哨戦、スプリングステークス。ここでもナリタブライアンは強い、ただ、他の馬にも付け入る隙はあるかも、という印象であった。その印象が覆されたのが皐月賞であった。皐月賞がレコードであったこともそうであるが、レースそのものが格の違いをみせつけた感があった。このレースで3冠を確信した。この時の着差は3馬身半であった。そして迎えたダービー。直線大外から一気にかわし、つきはなす。その差、5馬身。このレースも府中でみていたが、その圧勝ぶりにただ圧倒された。その後菊花賞で7馬身半ちぎり3冠に輝いたのは周知のとおりである。
 
こうした強さだけではなく、涙をくれた馬もいる。それがクラシック2冠、ジャパンカップ有馬記念に優勝したトウカイテイオーである。この4つのなかで印象深いのはやはり有馬記念であろう。1年ぶりのレース、骨折休養明け。不安要素ばかりであった。そんな不利をふきとばしたのが彼の能力であった。トウカイテイオーの場合、その能力を生かすだけの丈夫さをそなえていなかったのではなかろうか。ガラスの脚をもっていたのである。その脚がくりだす感動は何人にも衝撃・感動を与えた。トウカイテイオー有馬記念。これが私の有馬記念ベストレースである。
 
これらの競走馬は種牡馬として活躍しているが、逆にその子孫を残せなかった馬もいる。それはライスシャワーサイレンススズカである。
 
ライスシャワー菊花賞天皇賞・春を制した長距離界の雄であった。菊花賞ミホノブルボン天皇賞・春メジロマックイーンと圧倒的1番人気を下し、「刺客」と呼ばれた。この馬は3000メートルを越えると圧倒的な力を示した。無尽蔵のスタミナ。そして勝負根性。これがこの馬の特徴であった。また関東馬なのに淀しか走らなかった。その生命を失ったのも京都で行なわれた宝塚記念であった。淀で名を成し、短い生涯を閉じた。復活の天皇賞・春。これが最後の勝利であり、私のライスシャワー、ベストレースである。
 
サイレンススズカは4歳にデビューし、2戦目の弥生賞で2番人気に推され、当初からその素質は買われていた。しかし、弥生賞はゲート内で暴れ、スタートで出遅れ、そのせいか、彼の出世も出遅れた。彼が本格化したのは5歳になってからであった。主戦が武豊になり、その持ち味である絶対的なスピードが生かせるようになった。たんなるスピード馬ではない。マイル前後なら彼より速い馬はいるかもしれない。しかし、中距離というスタミナも要求される中で、彼のスピードは生かされた。スピードの絶対値が違うのである。1頭だけ別次元で走っている感じがした。1頭立てといってもよいくらいであった。そのスピードをいかんなく発揮したのが金鯱賞。馬場が悪かったにもかかわらず、レコード勝ち。その別次元のスピードは自らの競走馬生活を縮める結果となった。5歳の天皇賞・秋。私は東京競馬場にいた。彼の圧倒的なスピードで府中のコースを走り抜けるその姿を見るために。誰も信じて疑わなかったポール・トゥ・ウイン。しかし、大欅を過ぎた頃、悲劇は起こった。私は4コーナーの芝生席に陣取っていたが、その前で起こったのだった。もう永遠にゴールできない。目の前で起こった衝撃の結末。絶対的なスピードとそれを維持する肉体。その調和が崩れた瞬間だった。